忍者ブログ

世の中ななめに眺めれば

Home > ブログ > 世間

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

記述式問題の答案をコンピューターで採点?

6月14日付けの朝日新聞の報道によると、大学入試センター試験に代わる新テストで「文部科学省が記述式問題についてコンピューターによる採点支援を検討」とあります。
へえ、コンピューターで思考力、判断力、表現力がわかるのかな?

もしそうなら、森鴎外の文章と夏目漱石の文章と、どちらの点数が高いかなどもでるのでしょうかね。
谷崎潤一郎と川端康成とではいずれの文がよりノーベル文学賞にふさわしかったか、とか、大江健三郎と開高健を比較すると、芥川賞作家としてはどっちがすぐれていたか、なんてことも結果がわかることになってしまうのでしょうか。

だけど、自分の書いた文が(たとえ試験の答案であったとしても)コンピューターの野郎に採点されるなど筆者には耐えられませんね。
筆者の受験のころが、進学適性検査も共通一次試験もセンター試験も、なかった時代だったのは幸せでした(コンピューターも普及してなかったし)。択一式試験ならともかく、記述した文章の答案を機械などに判定されるくらいなら、受験などくそくらえだ、と考えたことでしょう。

こういうことが行われるようになれば、受験予備校では「コンピューター受けをする文章の書き方講座」が開かれることでしょう。
「コンピューター受け」ってどんな風にすればいいのか、ちょっと考えてみました。例えば、
<私はひとつの猫だ。人々によって私に与えられるところの私の名前を私はまだ持っていない。私がどこで生まれたかということは私にとって全くわからないところのものである。ただ、少し暗い湿潤な場所において私がニャーニャーと泣いていたことだけを私は記憶している・・・>

こんな感じでしょうか。
主語は絶対省略してはならないし、人称代名詞の所有格や目的格も律儀に書かなければだめですよ。
PR

「国立大学に<日の丸>と<君が代>を」

なんて言いだしているようです。
そもそも国旗も国歌も単なる記号であり、他の国から自国を区別するための標識にすぎないものなので、日本にある日本の大学でどうして国旗を掲揚したり国歌を歌ったりしなければならないのか、わけがわからん。
まあ、東大がサンフランシスコに「UTSF」なる名前で分校を設立したのなら、そこが日本ルーツの学校であることを示すためには意味あるかも。
そうでないのにこんなヘンなことを考えるのは、もう理屈じゃないんでしょうね。「オレの言うことは何でもその通りにせよ」とばかりにおのれの威光を社会に及ぼしたい一心であろうとしか思えません。


気概ある大学ならシカトするでしょうが、学長が「体育館裏へ呼び出さ」れるのは困るなどと考えて受け入れるところも出てくるかもしれません。抵抗すると、財政面で圧力をかけてくるのも目に見えているので、屈服するところが多くなる可能性もあります。

こうした場合せめて「面従腹背」の精神だけは保ってもらいたいものです。
日本人って、強大な力を有するものへの対し方は、①負けるの承知で正面からぶつかる、②唯唯諾諾と従う、のどちらかですね。①の典型は先の戦争末期の特攻隊だし、②の典型はマッカーサー占領軍への対応です。
①でも②でもない第三の選択肢として面従腹背、すなわち口では「ヘイヘイ」と言っておきながら後ろを向いて舌を出す、というのがあります。従順のように見せかけながら裏へまわってレジスタンスやゲリラ行為を行って支配者の力を殺ぐやりかたですね。
日本人はどうもこれが不得手というのか、やりたがらないみたいです。敗戦のときも、マッカーサーはレジスタンスやゲリラ的行動が必ずあるものとして乗り込んできています。日本人の私信はすべて開封して検閲したのも、そうした動きを事前に察知して抑えるためだったのですが、そんな行為はまったくなくて拍子抜けしたことでしょう。
小松左京のSF小説「地には平和を」では、終戦直後のパラレルワールドで日本人ゲリラが活動しますが、他には見たことも聞いたこともありません。

しかしながらこのような時代になってくると、不得手だなんても言ってられません。
無理やり「君が代」を歌わされそうになったときはどうするか?
クチパクもいいですが、いずれ本当に声をだしているかどうか調べにきますよ。配属将校ならぬ配属官僚のような人物が駐在して、声を本当に出しているかどうか騒音計を持ってチェックするでしょうよ。そのときは母音で歌う、というのがいいと思います。
「君が代」が歌いたくないのは、もっぱらその歌詞に起因しています。メロディーというものは、好き嫌いあっても、所詮「異なる周波数を持つ空気振動の連なり」に過ぎません。抽象的なものなので罪はないですね。
だから母音でがなりたてて声を出すという方法を採用しましょう。
「母音で歌へ、君が代」というわけです。

「いいあお」

いいああおおあー
いおいいいあいおい
ああえいいおー
いあおおあーいえ
おえおううううあああえ


または冒頭の一字だけ別の字に置き換えて歌う、という手もあります。
「き」を「た」にチェンジするのです。

「民が代」

民が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで

民が代、すなわち民主主義の世の中は
千年も、いやそれ以上
小石が集まって
大きな岩となり
それに苔が生えるまでも続いてほしい

いや、なかなかいい歌詞ではないですか。
大学の関係者、教員や学生、が権力にガチンコでぶつかって行って処分される、などつまらないことにならないよう祈っています。


「下から目線の道徳教育」

最近、学校での道徳教育を教科化しようとしているようですが、「道徳」というとどうして上から目線のエラソーなものばかりなのでしょうかね。曰く「親の恩は山より高く海より深い」。また曰く「仰げば尊しわが師の恩」。またまた曰く「愛社精神なきところに社業の発展なし」。さらに曰く「愛国心を持たない者は日本人ではない」。
こんなのばかりでなく、教科化するなら下から見た道徳も組み込む必要があるのではないですか。

「親の恩」などと言うけれど、別に頼んで生まれてきたわけではないですよね、子供としては。夫婦が一夜快楽を追及した結果、望みもしないのにこのせち辛い世の中に引きずり出された、と言うのが実態です。「とうちゃんとかあちゃんが二人していい気持になったからお前が生まれたのよね、ありがとう」というような感謝の心を、親としては常に持っていなければいけないのです。

卒業式でよく歌われる「仰げば尊し」という歌、「わが師の恩・・・」なんて歌いますが、これは児童・生徒が、自分たちでまたは誰かに頼んで、作ってもらったわけではありません。学校側で、つまり教師側で作ったものを児童・生徒に歌わせているのですが、こんなことさせて教師として恥ずかしくないのでしょうかね。
子供たちが「仰げば尊しわが師の恩・・・」などと歌っているその前で当然かのようにシレッと聞いているなんてよくできると思います。筆者の中学・高校の卒業式ではこの歌は歌いませんでしたが、当時の教師はまともな人が多かったと見えます。
教師という職業は児童・生徒が存在するから成り立つものであります。国・公立の学校なら税金が投入された結果教師は給料がもらえます。私立の学校ならバカ高い入学金や授業料からサラリーが出ます。すなわち児童・生徒のお蔭でおまんまが食え、家族も養って行けるのですからこれを「恩」と考えなければいけません。
この歌は「仰げば尊し生徒の恩・・・」と教師が歌わなければいけないものなのです。卒業式では檀上に卒業生が居並び、そのすぐ下に教師連が整列してこれを歌ってこそ道徳にかなうものとなるでしょう。

「愛社精神」なんてカッコいいこと言っても、そんなの本気にできませんよね。なにしろ経営陣は株主の顔色ばかりうかがっているし、上司はセクハラ・パワハラ・マタハラのやり放題だし、そのまた上司は取引先にたかってタダのゴルフばかりやっているのだし・・・。
企業には責任がありますが、それは株主をもうけさせ従業員を食わせていく責任のみならず、消費者や利用者、または立地点のコミュニティなどにもまた責任が生じます。この「企業の社会的責任」というものは非常に大切なものなので、これを重視しないような企業はダメ企業との烙印を押されてもやむを得ないのですね。
この責任を全うするにはやはり企業内の道徳の状況をありのままに社会に示すほかはありません。部下から見た上司や経営者の行動を人事考課として世間に発表するのです。考課担当者はまだサラリーマンの悪弊に染まっていない、新入社員中心の下っぱ社員を起用するべきです。彼らが経営陣の腰抜けさや上司の汚職、ハラスメントなどを遠慮なく公表できる制度を確立してこそ、その企業はグローバルに発展できるのではないですか。

「愛国心」なんて言われてもねえ。そもそも生まれて来るとき国を選べるものではないですから。もしも選べるようなシステムになっていて、JAPANと書いてあるところに丸をつけて日本に生まれたのであったら、これは自分で決めた責任上どうしても日本を愛さなければならないでしょう。でもそうじゃないのだからね。自分で決められるのなら日本なんか選びっこないです。まあどこを選んでも、住んでみれば問題沢山あり、ということではあるでしょうが、「先進国」と言われている国なら今の日本よりましであることは言うまでもないことです。
そんな国民に「国を愛せよ」などと愛国心を強要する前に、国が国民を愛していることを示さなければまったく話になりません。
「国民になぜ国を愛さないかを問い給うな、政府がどうしたら国民を愛することになるのかを問い給え」ですね。


日本ブログ村世相批評





アパルトヘイト

曽野綾子さんの書いたコラムが(負の意味で)話題になっていますが、もともとこの方はよく変なことを言う人だったのです。
変なことでも、邪なことでも、何であれ頭の中で考えることはその人の自由であって妨げられるものではないですが、それを公の場所で述べることについては一定の配慮が必要なのはわかりきったことですね。
この方がそんな配慮の全くできない人物であることはみんなわかっていたはずなのに。そういう人に公の発言ができる場を与えている論壇(そんなものがあるとして)にも責任大有りだと思いますね。

問題の文章が載ったKKK新聞は「いや、あれは曽野さんにお任せしているコラムであって、わしゃ知らん」と逃げてしまいました。
普段から景気のいいことを書いている新聞なので、「アパルトヘイトで何が悪い」くらいのことは言うかと思いましたが、がっかりです。大事なところでトンズラしてしまって、弱虫で卑怯なところを見せつけたのは醜態でした。


日本ブログ村世相批評

建前の政見放送はつまらないね

選挙前ってことで、TVでは盛んに政見放送なるものを流してますが、みんな建前ばかりでつまらなく、聴くに耐えないものばかりですね。
すこしは本音で演説すればいいのに。
例えばこんな風に。

A候補
美しい日本を作るためには、戦前のレジームに戻さなければなりません。領土も戦前のものに戻すよう努力しなければなりません。北方四島などと言いますが、戦前はそればかりではなく樺太も南半分は日本のものだったのです。それが戦争に負けたからという理由で盗まれてしまったのです。
同じように朝鮮半島も満州も日本から盗まれたのです。
これらの領土を皆様とご一緒に取り戻そうではありませんか。

B候補
経済の発展なくして日本は存在できません。デフレはいまどんどん改善しつつありますが運悪く、また能力不足でいまだその恩恵に浴していない企業経営者の方々はぜひお考えいただきたい、労働者を甘やかしていないかどうかを。労働者とは甘やかすものではなく、搾り取るものであります。そこを間違えてはなりません。
世にブラックと呼ばれたりする企業がありますが、これらはみな優良企業です。業績の上がらぬ企業経営者の皆さんはすべからくブラック企業の経営者を見習うべきであります。

C候補
神道というものは宗教ではございません。日本の心ともいうべきものであります。従いまして閣僚が靖国神社を参拝しましても政教分離の原則に違反するものではございません。総理大臣が参拝しましても全く問題はございません。
また宗教ではなく日本の心でありますので、仏教徒の皆さんもキリスト教徒の皆さんもさらにはその他の宗教を信じる皆さんも神道には帰依していただき、神道の神をあがめていただく必要がございます。それをなさらないと非国民ということに相成ります。

などと本音を言えばいいのにね。言わないか。


日本ブログ村世相批評

PAGE TOP